【問1】次の①と②のレポートを読んで、どちらがクリティカルシンキングをよく働かせていますか。その理由も述べなさい。あなたがより良いと思うボタンをクリックして下さい。
①②

①                         子どもにわかりやすく話すこと      
 
私は、今まで学んできた中で、教師中心の授業と子ども中心の授業のどちらにも長所と短所があるように思いました。そこで、そのこつをうまく組み合わせることができれば一番いい授業の形になるのではないかと考えました。それは、低学年に対しての授業や各単元の導入部分では教師中心の授業を行い、中・高学年に対しての授業や単元の展開部分では、子ども中心の授業を行う授業実践です。
 私がこのような授業実践に必要だと思うことは、教師が子どもに対してわかりやすい発聞をすることです。教師中心の授業にしろ、子ども中心の授業にしろ、教師の発聞から子どもを正しい方向に導くことは大切だと思うからです。わかりやすい発問とはどういうものを指しているのかというと、具体的な言葉で明示された発問です。
 例えば、教師が子どもを図書室に移動させる時、「図書室に移動しましょう。」といえば、子どもは大きな芦で喋りながら移動します。対して、「口を閉じて移動します。着いたら、グループごとに席について、静かに待ちます。」このように教師が言うことができれば子どもは指示された通りに移動するでしょう。これは、授業実践にも言えることだと思います。教師が抽象的な言葉で発問をしても、子どもは何を伝えたいのかわかりません。明確で具体的な発問なら子どもは次に何をするのかスムーズに分かり、教師が発聞をしたときたくさん子どもたちから考えが出てくると思います。
 次に、このような授業を実践するにあたって、子どもを学習のレベルや子どものタイプによって分けることを提案します。
 同じ教室で学習意欲や習熟度の違う子どもをひとりの先生が同じ時間に教えることは、よくよく考えると、既に授業についてこられない子どもがいる中でどんどん先に進むことができる子どももいるのでとても難しいように感じます。教えるときに子どものタイプやレベルに分けていれば、授業についてこれていない子どもたちには、基礎を厨める教え方をすればいいし、習熟度の高い子どもについては、応用問題を扱うような授業をすることができる。こうすれば、子どもにとってもわかりやすい授業になると思うし、教師にとってもやりやすい授業になると思います。また、緒川小学校のオープンタイムや週間プログラムのように、子どもが自ら学びたい授業を選ぶことによって、子どもをタイプ別に分けることも同様に考えられます。
 以上の二つのことをうまく実践することができれば、子どもにとっても教師にとっても望ましい授業になるのではないかと思います。
参考文献
 藤沢晃冶(2008)「分かりやすい教え方」の技術 「教え上手」になるための13のポイント、講談社。
 片上紀子(2011)入門生徒指導「生徒指導摘要」をふまえた新しい生徒指導のあり方、学事出版。

②                           一人ひとりを生かす発問

 私は、教師中心の教育を基本とし、教師中心の教育に足りていない部分、さらに加えた方が良い部分においては、子ども中心の教育を取り入れる教育実践が望ましいと考える。
 私は、子ども中心の教育のほうが、子どものやりたい学びを意欲的にさせることができるので、子どものためにはいいかもしれないとおもっていた。しかし、教師中心の教育でも教師の発問のしかたによっては、子どもたちは自分で、いろいろなことを考えることができると考えた。
 その実例として哲学者の林竹こがおこなった授業がある。林は子どもたちが授業の主人公となって学習をするために、ある事柄を教えるのではなく、子どもに自分で考えさせ、気付かせるきっかけ作りに重点を置いて授業をした。この授業の感想として「いままでのべんきょうにくらべると、ずいぶんちがいます。」というものが小学三年生からでた。これは自分の勉強のしかたというものでは本当の学習になっていないということを、子どもは子どもなりに、非常に鋭く正確に感じ取っているということである。また、授業の時聞がとても短く感じたというような意見もあり、子どもたちが意欲的に授業に取り組んでいたことがわかる。
 広い視野をもつ教師から、あえて関われることによって、子どもは自分一人では想像もつかなかった視点から考えるようになるのである。そして、そのプロセスの中で、思考すること、問題を解決することのおもしろさを実感し、成長する。その後で、ようやく子どもは自ら疑問をもち、自ら考えられるようになるのだ。優れた発聞によって、「筋道を追って考えれば、必ずわかる」と実感できたとき、子どもは学ぶ喜びを身につける。また、発簡をされることによって、子どもたちは、自分がわかったつもりになっていただけで、実際は、不十分な理解だったことに気づくことができる。そのことが、わかりたいという学習への前向きな姿勢を生み出すのである。ということは、発聞によって、子どもたちは学ぶ喜びと学びへの前向きな姿勢を手にすることができるのである。これは、発聞をしるということに、子ども中心の教育に見られる子どもの主体的な学びを引き出す効果と同等の効果があるということだと、わたしは考える。さらに、教師が自ら発問をしていることにより、教師が授業全体を組織化することができる。組織化することにより授業計画を立てやすくなることはもちろん、子どもの手助けをしやすい環境になる。その部分があるので教師中心のやり方を基本とした方がいいと私は考えている。実際、自分が受けてきた授業は、教師中心の授業であったが要所に自分たちが考えなければならない場面があったし、自主的に考えていたと思う。それは、教師の発聞により学びの手助けをされていたということであると考える。
 発問の仕方によって、子どもたちを学びの主人公にすることはできても、子どもたち一人ひとりの個性を授業に活かすことができるのか、という批判があると思う。子ども中心の教育では、「座席表やカルテに取り組む中で、その子らしさが見えてくる。その子らしさを出せる教材と出会ったときに、その子が生きる授業になる。」という考えがある。確かに、その子一人ひとりの個性をしっかりと理解をするということまでは、教師中心の教育をしていては、達成することができないと思う。それは、発聞に対する子どもたち一人ひとりの反応が見えにくいからである。発聞に対する反応というものは、子どもの内面には表れているかもしれないけれど、外面的には、見えにくい。そこで、子どものことをしっかりと見て、その子らしさを見出すために、子ども中心の教育で使われる座席表やカルテを教師中心の授業にも取り入れればいいと考える。わたしは、教師中心の方法と子ども中心の方法を分けて考える必要はないと考えている。だから、お互いの悪いところは、お互いが、補完しあえばいいと考える。座席表を使えば、子どもたちの関係性や子どもの思考の流れがわかるようになる。そして、カルテを使えば、その子が考えていること、その子が学級の中でどういう存在であるか、その子が授業にどのような影響を与えるか、ということがわかるようになる。それらのことがわかれば、担任教師が、その子にどのように育ってほしいか、どのように学んでほしいか、ということまで明確にできる。そして、明確にすることによって、子どもたちに対する発聞を一人ひとりの特徴、学級の様子にあわせて、変化させることができ、子どもたち一人ひとりを活かすことのできる発聞をすることができるようになることにもつながる。
 以上のこと踏まえて、わたしは、子ども中心の教育の要素を教師中心の教育の中に組み込むことができれば、教師中心の教育の中にある不安要素を解決することができるようになると考える。だから、わたしが考える望ましい教育実践は、教師中心の教育を基本とし、教師中心の教育に足りていない部分、さらに加えた方が良い部分においては、子ども中心の教育を取り入れる教育実践である。

出典
 林竹二:子どもの授業論、p109-139
 上回蕪:静岡市立安東小学校「安東小発 個を見つめる」明治図書、1999年、p26-39
 野口芳宏:「野口流 教師のための発問の作法」学陽書房、2011年、p14-19.

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